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経済学の流れ

目次

  1. 三大経済学
  2. 重商主義と重農主義
  3. 経済学派
  4. 経済学の最新トピック
  5. 経済学人物

三大経済学

目次

アダム・スミス

生涯

年代出来事
1723スコットランド東部のカーコーディで生まれる(洗礼6月5日。一人息子)
1732カーコーディの町立学校に入る。
1737グラスゴー大学に入学(14歳)道徳哲学教授フランシス・ハチソンの影響を受ける
1740オクスフォード大学ベリオールカレッジの奨学生に選ばれ、オクスフォードへ向かう。
1746カーコーディに戻り母と暮らす
1748エディンバラで公開講義を行う
1751グラスゴー大学論理学教授、52年同大学道徳哲学教授。以後13年間グラスゴーに留まる。
1759『道徳感情論』刊行。フランスやドイツでも名声を高める。
1763~64タウンゼント卿の義理の息子の家庭教師を務めることになる。グラスゴー大学に辞任を伝える。ヨーロッパ旅行に随行。フランスのトゥールーズに1年半留まる。
1765~66パリに10か月滞在。重農主義者ケネーと出会う。
1766ロンドンに帰着(6か月滞在)
1767カーコーディに戻り『富国論』の執筆にとりかかる
1776『富国論』刊行
1787グラスゴー大学名誉総長。
17907月17日死去(67歳)。エディンバラのキャンノゲイト教会の墓地に埋葬。

考え方・理論

『富国論』(An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations):イギリス議会図書館のウェブサイトで原文全文を読むことができる。文字通り、「国家の富を増やすにはどうするべきか」を論じている。

  1. 経済活動に対して国家が様々に規制することには根拠がなくむしろ逆効果だという。
  2. 規制を廃止して自由な物質交換や貿易を行えば、誰もがよい結果を手に入れるという。
  3. アダムスミス「経済活動を自由にさせて置けば、人間は”利己的な心”によって富を築き、そこに”見えざる手”が働いて社会の調和が生み出される」(Invisible Hand)
  4. 「分業」と「資本の蓄積」が生産力の向上をもたらす→生産工程をいくつもの小さな作業に分割してそれぞれを専門的な熟練者が受け持つことで高い生産効率が生まれる。それによって企業は利潤を増やし、資本を蓄積し、その余剰分を投資してより効率的な機械化を実現できる。
  5. 資本を蓄積しそれをうまく管理し、かつ保護する国家こそが繫栄する。これは自由貿易と競争によってのみ自動的に達成される。
  6. 政府の経済活動への関与は限られるべきだ
  7. 彼の思想を実現した経済システムが「資本主義」
  8. イギリスの啓蒙思想(18世紀)と重なり、キリスト教会の宗教的権威主義や旧弊が批判され、合理的、批判精神に基づく多様な考え方が噴出した時代(アイザック・ニュートン:物理的自然観)
  9. フランシス・ケネーとの出会いで「レッセフェール(なすがままにまかせよ)」という自由放任主義を知る。「Laissez faire et laissez passer,le monde vade lui même!(なすがままに任せよ、さすれば世界は勝手に回る!)」
メモ
言葉意味
GNP(国民総生産)生産物やサービスの流れそのものを指す。
GDP(国内総生産)20世紀後半にGNPの名称が変わったもの。


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カール・マルクス

生涯

年代出来事
1818ドイツ西部(プロイセン<プロシア>)王国ロワーライン州)トリーアで8人兄弟の2番目として生まれる。エンゲルスは1820年裕福な工場経営者の家に生まれる
1830トリーアのギムナジウム(中等教育校)に入る(幼少期は過程で教育を受けた)
1835ボン大学で法学を学ぶ(17歳)
1836ベルリン大学に転入。青年ヘーゲル派(熱狂的なヘーゲル哲学グループ)に参加
1837ベルリン郊外シュトラローでヘーゲル哲学に熱中
1841ベルリン大学卒業。イエナ大学に論文提出、哲学博士号取得。
1842ライン州ケルンの「ライン新聞」編集長。エンゲルスと出会う。
1843イェニイと結婚、パリに移住。44年長女イェニイ(母親と同名)誕生。
1845ブリュッセルで共産主義グループの全ヨーロッパネットワーク「共産主義者同盟」に参加。プロシア国籍離脱。
1848自由民主主義革命後ケルンに戻り「新ライン新聞」発行。『共産党宣言』執筆発表。
1849ロンドンにうつり、同地で以降の人生を過ごす。
1867『資本論』第1巻刊行。
18833月14日64歳で死去。ロンドンのハイゲイト墓地に埋葬(長女イェニイは同年1月、妻イェニイは81年死去)
1885エンゲルスが『資本論』第2巻、第3巻(94年)を編集刊行。エンゲルスは1895年死去(74歳)。

考え方・理論

  1. ソヴィエト連邦のレーニンやスターリン、中国の毛沢東に国民を支配するツールとして用いられた思想。マルクス主義が前進したのは20世紀初め第一次世界大戦の終結後(300年に亘ったロシアのロマノフ王朝(帝政ロシア)を暴力革命によって倒し、これにとってかわったのがレーニンをはじめとする共産主義者たちが作ったソヴィエト連邦)
  2. カール・マルクスはユダヤ人の両親から生まれた。両親は共にユダヤ教のラビの家系、法律の大学だったが詩作や哲学に熱中した。(特に哲学ヘーゲル流のドイツ観念論)
  3. プロレタリアート(Proletariat):「賃金労働者階級」「無産階級」
  4. ブルジョアジー(bourgeoisie):資本家・企業家などの富裕階級
  5. プロレタリアートこそが救世主。マルクスの結論は「人間にとって最高の存在は人間自身である」「何者も人間の上に立つことはできない」→彼は神の存在を否定して宗教を批判し、無神論者となっていた。労働者階級は救世主としての役割を持ち、全人類を開放する存在でもあると言った。
  6. 『資本論』(Das Kapital)
  7. ダーヴィン進化論からヒントを得た(社会は進化する。古典派経済学のリカードや空想的社会主義のサンシモン、ドイツ観念論哲学のフォイエルバッハなどの影響もある。「種の起源(1859年)」ここから「歴史上のある時点の社会構造は生物のある時点の姿に置き換えられる」)つまり、経済を絶えず進化する動的なものととらえた。エンゲルスなどの友人にこの本を読んだ後「ダーウィンの本は歴史的な階級闘争の自然科学的な基礎になる」と興奮気味に描いた。
  8. マルクス主義の根柢の世界観は「唯物論」、すなわち「精神葛生の根源は運動する物質にある」とするもので、この見方は「弁証法的唯物論」とか「唯物史観」と呼ばれ、ドイツ語や英語の「歴史的物質主義」をうまく日本語化したもので、すなわち「唯心論」の対極にある。
  9. マルクスの言葉「人間存在を決定するものは人間の意識ではない。人間存在がその意識を決定するのである」「君がどのように物を生産しているかを言ってみよ。さあすれば君が何者か当てて見せよう」
  10. マルクスは自分の唯物史観を人間の歴史に当てはめて「私は歴史の客観法則を発見した」と宣言し、「歴史の駆動力は物的生産諸力と生産諸関係の対立だ」と言った。
  11. ある社会発展段階に達すると、生産諸力と生産諸関係の均衡が崩れて、両者が衝突するようになり、社会経済の障害になってくる。つまり資本主義的構造が行き詰まり、必然的に革命が起こる。革命によって生産諸力を資本家・企業家の手から広く開放すれば、より適切な社会が生まれる。資本主義が危機に陥ればそのあとに経済的破局が訪れるだろう。これを避ける唯一の脱出路は社会主義革命を起こすこととした。(持論でいうと、ここで社会主義革命を唯一のツールとするのは間違いと思う。)
  12. マルクス理論では階級(クラス)の概念が必須で、生産手段を所有する人々の階級と所有しない人々の階級がある。歴史的に正しい階級である「労働者階級(プロレタリアート)」と「正しい階級意識を持つ者の階級」は人の生死を決定することもできるという。つまり、人間の歴史を駆動する力は階級と階級の対立、すなわち「階級闘争」だという。
  13. プロレタリアートはは地上に無階級社会と言う楽園をもたらす宿命にあるとしている。
  14. 古い社会には進歩的な階級(社会主義的勢力、左派)と保守的な勢力(進歩に対抗する反動勢力、右派)が存在し、それらが対立するようなる。
  15. ひとたびマルクス理論を信じた物は他のいかなる信念や経済学や社会思想に対しても寛容ではなくなり、彼らは必ず、〇k数自身が名付けたところのプロレタリア独裁を実現しなくてはならないと信じる。それがマルクス主義の中核思想であるからだ。
  16. マルクス経済学は完全失敗であることが、途方もない人命の犠牲や人々の苦難とともに実証されたことは誰の目にも明らかだった。

背景

メモ

言葉意味
産業革命18世紀に蒸気機関が実用化され、織物工業が機械化されると、精力的に広がった。
マルクス主義資本を社会の共有財産に変えて階級のない共同社会を目指す考え方。
社会主義すべての経済資源は選挙で選ばれた政府により全国民に分配される。
共産主義ほぼすべての資産や経済資源は国家の所有と管理のもとにおかれ、労働者階級などの社会階級は完全に破壊される。
生産諸力道具や機械、科学技術などの生産手段
生産諸関係生産諸力が用いられる社会構造、誰がそれを所有し、誰がそれらを用いて生産するかを意味する。

解釈

マルクスの見方は、主に物資や資本を求めて行われる人々の階級争いや利権争いが資本主義のような「地上の王」の真似事を成り立たせるわけがないということに気づいた点で有益であるが、その崩壊の方法が戦争である点において人類に進歩をもたらさなかった。
このことは目には目と言っても過言ではない革命の方法であったが、当時の情勢からは柔和な解決が不可能なほどの罪をはらんでいた可能性も否めない。この点で、マルクスの失敗は神による罰であったという見方も忘れてはならない。そのうえで、人類が本当の意味で進歩する見方を示す必要があると考えられる。
すなわち、所有者階級がどのように崩壊すべきか、その崩壊の過程が予定調和と一致するように運ばれるにはどのようにするべきかを考慮できる流通の手段が必要なのである。また、経済に関して分析の目を持つということがすでに動かしてはならないものを動かしうるという点でその罪の一途を背負うという点を熟知する必要があり、これはギャンブルのように資産が動くはずのない事象の内に資産が動くような方法であるということを忘れてはならない。これがインドネシアの神話に見るような(あるお祖母さんが魚がアッラーに頼んで危機を脱したのを見てお金をアッラーに頼み、金を得た話)であればよいのである。(しかし、このような場合にもその得た金の使い道を問われるだろう)



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ジョン・メイナード・ケインズ

生涯

年代出来事
1883ケンブリッジにて、経済学者の父ネヴィルの長男として生まれる。裕福な家庭で育つ。幼少期は病気がち。
!1883マルクス死去
1897イートンカレッジ入学
1902ケンブリッジ大学キングスカレッジに入学。アルフレッド・マーシャルに師事。同大学哲学・倫理大学教授G・E・ムーアの影響を受ける。
1904日露戦争で日本勝利
1905ケンブリッジ大学卒業後、06年インド省に勤務
1910頃芸術家や作家などの「ブルームズベリー・グループ」と交流
1912王立学会誌「エコノミック・ジャーナル」編集長
1913最初の著書「インドの通貨と金融」刊行
!1914第一次世界大戦(~18年)
1915大蔵省に入省(~19年)
!1917ロシア革命(ソヴィエト政府誕生)
1919大蔵省の代表としてヴェルサイユ会議(パリ講和会議)に出席。ドイツに対する法外な賠償額を批判し、会議の途中で辞任。『平和の経済的帰結』発表
1919~1921ケンブリッジ大学で教鞭をとる
1920頃複数の投機的事業に着手
1921リディア・ロポコワと出会う。
!1921中国共産党誕生
1923『貨幣改革論』発表
!1929世界恐慌
1930『貨幣論』全2巻刊行
!1933ヒトラー、ドイツ首相就任
1936『一般理論』刊行
!1937日中戦争
!1939第二次世界大戦(~45年)
1940『戦費調達論』発表
1941イングランド銀行理事
1944ブレトンウッズ会議に出席しIMF設立に尽力。世界銀行の初代副総裁に就任
!1945国際連合発足。IMF(国際通貨基金)、国際復興開発銀行設立。
1946サセックスにて62歳で死去

考え方・理論

ケインズ思想の特徴
  1. 社会経済を大きな目で(マクロ的に)見る。つまり経済学のミクロ的な観念である消費、貯蓄、所得、支出、雇用の全体(総量)をもとに経済を評価する
  2. 所得と支出、それに雇用の総量を決める基準は「有効需要」である
  3. 経済は本質的に不安定で、好況と不況が繰り返される。これが起こるのは企業の投資が気まぐれに行われるため
  4. 賃金と価格は構造的に下がりにくい性質を持っている。これらが下がるデフレ現象が生じるのは大不況においてのみである。
  5. こうした理由から、雇用を増やし、価格を安定させ、経済成長を持続させるために、政府は経済的に積極的に介入すべきだ。とりわけ不況時には財政支出を増やし、減税を実行し、個人消費を増やすように仕向けねばならない。さらにマネーサプライ(通貨供給)を増やし、金利を下げることによって投資を促進すべきである。インフレ時にはこれと逆の対策が必要になる。

背景

メモ

言葉意味
優生保護法日本で1996年まで劣勢の遺伝子を持つとされる者の断種が行われていた。ヨーロッパやアメリカでは広く行われていた。1996年以降、関連法として「母体保護法」となった。
ナチスのアーリア人種思想純粋なゲルマン民族などのアーリア人増殖のための専用施設まで建設された。中国やインドでもこれと類似した見方を定めた法律ないし制度が現在も存在する。
コーケシアン優越主義
精子銀行
デザイナーベイビー
ブラック・サーズデー1929年のニューヨーク株式市場の大暴落。ここから始まって世界恐慌となった。(全世界での失業者は3000万~5000万人、世界貿易は70%以上激減した)ケインズ40代半ばのとき
総需要ある国のGDP(国内総生産)に対する需要
ルンペン・プロレタリアートマルクスのドイツ語表現で資本主義社の最低辺に沈殿する浮浪的な貧民層
マネー幻想通貨の価値が下がってもさして気にしないにもかかわらず、自分の賃金(名目賃金)が下がることをひどく嫌う矛盾した労働者心理のこと。
ニューディール政策国中にあふれる余剰労働力の一部を政府が雇用し、大規模な公共事業を実行するもの。テネシー川流域開発(TVA)。フランクリン・ルーズベルトはケインズの不況脱出の手法によって実行した。(1934年にケインズに会っている)そして第二次世界大戦に突入し、アメリカは国中の生産力おt何百万院もの労働者を動員して、兵器生産などの戦争準備を始めねばならなくなった。戦争が巨大スケールの公共投資と前例のない大きな政府を強要し、アメリカは恐慌から一転して完全雇用を実現した。戦後の復興においてもおなじ状況は繰り返され、アメリカ経済は不況とは無縁となった。このため、ニューディール政策がどれほどの効果を示したかを確かめることはできなかった。
有効需要企業の生産活動から生じる所得が支出されることによって生み出される需要。ケインズ経済学の中心概念
下方硬直性ケインズ用語。賃金と価格は構造的に下がりにくい性質を持っているということ
消費の限界性向
資本の限界効率


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感想

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重商主義と重農主義

経済学の始まりとしては、イギリスの重商主義と、フランスの重農主義

重商主義

この言葉は特定の経済理論ではなく、商業を重視する見方のことである。英語の「マーカンタイリズム(Mercantilism)」の訳語。この言葉はアダムスミスが富国論で初めて用いたもの。(商人を見下していた当時のイギリスの貴族階級や地主階級はこの言葉を軽蔑を込めて使っていた。)
重商主義には16~18世紀のヨーロッパ諸国における重商主義には、絶対権力者が生産活動や貿易を思うがままに統制していたという意味合いがついて回る。
18世紀後半になると、ドイツの経済学者や歴史学者たちが重商主義をもっと前向きにとらえるようになった。ドイツ人は「優れた指導者による国家建設のための思想」と受け止め、なかには、重商主義は単なる国家建設の思想ではなく、経済建設の方法論も含まれるとみるものもいた。特にフリードリッヒ大王の統治するプロシアの元で「統一されたドイツ国家の建設」を志向した影響が強い。
西ヨーロッパでは16世紀ごろ(日本の戦国時代)から都市成長が社会経済システムを変質させ始めた。「古い封建社会」が後退し、商業資本主義というような新しい社会経済システムが現れた。これは航海術の発展に支えられて商売を「海外交易」にまで拡大し、利益が急上昇した結果でもあった。商取引や貿易が急成長すると、そこでは同時に「通貨の役割」も急拡大し、貨幣を鋳造するための金銀の需要が生じた。世界各地で金や銀などの貴重な鉱物が発見されると、ヨーロッパ諸国はそれらを手に入れるため地球上の至るところに大型外洋船を送り付けた。大航海と植民地獲得競争の時代に突入した。
この時代、外国貿易を行った商人たちは上流階級の目には「目端の利く商人」に過ぎなかった。しかし彼らはいつの間にか現代に通じる「資本の蓄積」を実現し社会経済の主役となって行った。『商人が富を蓄積すれば国家の富も成長する』これは国家の概念を鮮明にさせた。そして、国同士が経済力と軍事力によって対峙し、しばしば戦争を引き起こすことにもなった。

重商主義の7つの特徴

  1. 金銀の保有を増やす
  2. 他国より強い軍事力を持つ
  3. 輸入を増やし輸出を減らす
  4. 植民地を増やし貿易を独占する
  5. 商品は政府の管理下に置く
  6. 政府が強い監督権を持つ
  7. 勤勉で大きな人口を確保する

重商主義はあからさまな国家主義の思想であり、優れた支配者が賢明な方法で社会を管理すべきであるという社会思想を読み取ることができる。
経済学的には「政府の干渉による金銀の蓄積」が中心教義と見受けられる。

重農主義

背景

フランソワ・ケネー

フランソワ・ケネーはベルサイユ宮殿にポンパドール夫人の主治医に取り立てられて呼ばれた医師。医師としての能力を認められ、ルイ15世の主治医となった。
彼が宮殿の中2階に与えられた部屋にはしばし優れた学者たちが集まって来た。その中にはヴァンサン・ド・グルネという経済学者がいた。ケネーはこの経済学者によって経済学に興味を持ち、まもなく医学よりも経済学に関心を向けるようになった。
ケネーは社会経済を主物体に見立て、経済における富や商品や貨幣の流れは生物の体内を流れる血液と同じで、経済も自然法則として理解されなくてはならないとした。ケネーと同調者たちは後に重農主義者と呼ばれるようになった。
彼らの引き出した結論は、「国家の富を生み出す源は農業のみである」というものだった。あらゆる産業の中で農業のみが投入したコストを上回る成果(純生産物=剰余)を生み出すことができる。

経済表(タブロー・エコノミク:TABLEAU ŒCONOMIQUE)

ケネーはルイ15世のために「経済表(タブロー・エコノミク)[TABLEAU ŒCONOMIQUE]」を作り、資本を自由に循環させる社会システムを描いて見せた。(1758年)
彼はさらに、自由な市場で商品と貨幣が理想的に循環することを示した経済表の改訂版まで作った。これは「マクロ経済」の視点で経済を分析する世界初の試みだった。(アダム・スミスもマルクスもケインズもケネーの経済表に学んで自らの経済学を打ち立てた。)

重農主義の思想(ケネーからアダムスミスへ)

この重農主義の思想は1774年に時の財務総督テュルゴーによって実行に移された。 彼は「穀物取引を自由化」「ギルドを廃止」「公共工事に農民をただで駆り出すことを禁止」、人民の平等のために「職業選択や教育や宗教の自由を保障」「中央銀行を設置」「貴族に課税」した。
しかし、彼は貴族や裁判官や聖職者などの特権階級の激しい反撃に遭った。とりわけ「王妃マリーアントワネット」に直訴された「国王ルイ16世」は、改革者テュルゴーを解任した。そして、ケネーがこの問題に取り組んでいた時期に、アダムスミスがヴェルサイユを訪れ、ケネーらと会い重農主義を知り感銘を受けた。
ちなみにマリーアントワネットはフランス革命後、敵国への内通などの罪が問われ、処刑場に引き渡された。

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経済学派

目次

古典派経済学

「古典派経済学(クラシカル・エコノミクス)」は18世紀後半~19世紀初頭に生まれ、ほぼすべての経済理論へ派生した。この学派に含まれる経済学者の大半がイギリス生まれだった。(例外的にフランス生まれもいる)背景としては古典派経済学者たちの研究対象は主に工業化した資本主義社会という理由がある。このような社会を世界で最初に実現した国がイギリス(グレートブリンテン)

時代の流れ

イギリスでは18世紀後半に「産業革命(工業革命)」が始まった。そこで蒸気機関が使用されたが、他のヨーロッパ諸国、つまりベルギーやフランスではこうした新技術を用いた工業化に着手したのはずっと後の19世紀になってからで、ドイツはさらに遅れた。何百人の女性や子供が毎日長時間、手作業で働いていた織物工場が、蒸気機関の動力によりごく少数の人々の手で稼働する時代がやって来た。こうした機械化や自動化はあらゆる産業へと拡がり、伝統的産業は激変して消滅し、そのために無数の労働者が失業した。19世紀のはじめには「自動機械の打ちこわし運動(ラッタイト)」が起こるほどの社会大変動となった。このような流れの中でイギリス社会には新たな階級と集団が現れた。それは産業を変質刺せた「資本家・起業家の階級」と仕事を失った労働者の集団「搾取される労働者階級」だった。労働者はマルクスにプロレタリアートと呼ばれたがそれ以前には近代奴隷と英訳されたこともあった。

イギリスでは人口の大半が「自由農民」で自分の土地を耕してそこそこ平穏に暮らしていた。資本家も企業家も労働者も存在せず、社会の上層をなしていたのは貴族階級と僧侶だけであった。ところが16世紀、18世紀に耕作地の「囲い込み」という現象が起こった。地主が農民から細切れ的な耕作地を奪い取ってまとめ、広い農業地帯に変えたのだった。初期の囲い込みでは土地を羊の放牧場に変え、羊毛を織物業者に売るという商売を始めた。後の囲い込みでは、追い立てた農民を低賃金労働者として雇うようになった。これによって農業の生産性は高まったが、同時に新たに低賃金の困窮労働者と浮浪者の大群が出現した。

しかしこの変化を同時代の知識人性質はむしろ歓迎した。彼らの残した言葉には次のようなものがある。「貧しい農民を他人のために働かざるを得ない集団にに変えることでより多くの労働力が生まれるなら、、それは国にとって望ましいことだ」「働き手の男たちは住居を追われ、職を求めて待ちに出ざるを得ない。だがそれによって大きな余剰が生み出され、社会資本が蓄積される」。当時の経済学者は「貧しい大多数」をひとくくりにして、単に賃金や労働価値(経済的価値を生み出す手段としての労働力)、および賃金と利益の関係などの視点からのみ経済を考察した。

古典派経済学は社会経済をどう扱うべきか、その分析手法をそれ以前の重商主義や重農主義より遥かに進歩させた。当時の経済学者がこのように新しい見方に到達したのは、当時のイギリスの自然科学の影響がある。彼らの1世紀ほど前、アイザックニュートンが自然科学の世界に文字通りの革命をもたらした。ニュートンはそれまでカトリック教会が唱える世界観によって、創作されていた生命や宇宙の見方を厳密な実証主義科学へと大転換させた。経済学もニュートンと同じ手法で分析し理解すべきだと考えた。

マルサスは農業を重視して地主階級の見方をし、田舎の農業生活は都市生活より道徳的に上等だと考えていた。

セイとリカードは農業に取り立てて共感せず、自由貿易と資本の蓄積を重視する現代資本家・企業家的な見方を展開した。マルサスよりセイやリカードの方がその後の経済学の発展に直結する分析的経済学者であった。つまり社会経済を(個人的信念を排除して)幾つかの基本原理に立って論じようした。

古典派を代表する経済学者

ジャンーバティスト・セイ

マルサスに宛てた手紙「(彼らの先達である)アダム・スミスは富の生産と消費の現象を十分に把握してはいませんでした。しかし彼のお陰で、きわめて不確かであいまいな科学としての経済学が間もなく精密な科学に、未解明な部分の非常に少ない科学になるはずです。」

デヴィッド・リカード

「労働者は常に最低の賃金しか得られない」と言った。

ジョン・スチュアート・ミル
  1. 1806~1873、イギリスの哲学者・経済思想家
  2. 「生産と分配の法則」:富は自然法則にしたがって生産され人間の意思によって分配される。分配を公正にするため労働者は組織的運動や文化的活動を通じ、また知識向上を図って自らの福祉を増進させるべきである。
アダム・スミス
  1. 1723~1790、スコットランド生まれのイギリスの経済学者・哲学者
  2. レッセフェール(自由放任主義):人々の利己的な行動は「見えざる手」に導かれて社会是延滞の利益を生み出す。また市場を放任すればそこには自然に秩序が生まれる。したがって市場に政府はなるべく介入すべきではない。
ジェレミー・ベンサム
  1. 1748~1832、イギリスの哲学者・経済学者
  2. 快楽-苦痛の原理(功利主義):制度や行為が社会的に望ましいか田舎は、その結果として生じ効用(有用性)によって決まるとする「功利主義」の創始者。その思想は「最大多数の最大幸福」とも表現された。
トーマス・マルサス

『人口論』の中で「貧しい人々は人口の罠にはまり、人口増加と(飢餓と病気による)人口減少を永遠に繰り返すであろう」と言った。

  1. 1766~1834
  2. 人口の原理:人口は幾何級数的(2,4,8,16...)に増加し、食料生産は算術級数的(1,2,3,4...)にしか増えないので人口増加が社会の貧困を作り出す。これは社会制度の改良では避けられないと主張した。
  3. 供給過剰の理論:資本家・労働者は自らの全生産物を買い戻す力はないため、市場は原理的に供給過剰となる。これを解消するには余剰の生産物をひたすら消費する階級(緋生産階級)が必要となる

出来事等

年代出来事説明
1777蒸気機関(ジェームズワット)造幣局で貨幣鋳造のために1848年まで利用された。
1785紡績機械の原動力として世界で初めて蒸気機関が使用された
サンディカリズム労働組合主義と訳される。労働組合を通じて生産と消費を直結する社会を目指した。議会政治を否定し、労働者のストライキなど直接行動を奨励する急進的社会主義の一形態。ギルド社会主義はこの活動に影響を受けた一派で、産業べウニ結成した労働組合(ギルド)が生産を調節し、生産物を流通すべきと主張した。


章トップ

空想的社会主義

フリードリッヒ・エンゲルス

アンリ・ド・サンシモン

シャルル・フーリエ

ロバート・オーウェン



章トップ

国家社会主義

ルイ・ブラン

北一輝

無政府主義(アナーキズム)

どんな政府もその性質は強圧的となるのであり、従って政府と私有財産は完全に廃止すべきだ、とするもの。すなわち世界のどこであれ政府はつねに富裕層と知識層の側に立ち、貧困層に敵対する性質を持つ。従って社会革命のやり方は直接統治でもなく短銃統治でもなく非統治(無政府)でなくてはならないというもの。

解釈:ロシアの場合にはこの段階で政府を捨てても問題はなかったかもしれない。

プルードン

クロポトキン

バクーニン

ドイツ歴史学派

ドイツで生まれたドイツのための経済学。19世紀のドイツの社会背景から生まれた。産業や社会の発達段階は国ごとに異なるので、政府はそれに合わせた経済政策を積極的に実施すべきとした。後に国家主義的思想が加わった。

彼らは、ドイツは万民の経済学を志向するイギリスの古典派経済学の見方に追随してはならないと主張した。

ドイツ歴史学派の4つの基本理念

  1. 社会はダーウィンの進化論によって理解される。(経済学は社会の発展段階に適合していなくてはならない。)
  2. 古典派経済学は不特定個人の経済学だが、歴史学派が重視するのは個人ではなく社会である。社会が中心である以上、政府は経済に深く介入すべきである。
  3. 経済はその社会の歴史的な一部であるから、経済は歴史的に見なくてはならない。(経済を抽象化する古典派経済学は非歴史的で、静的かつ非現実的である。)
  4. 経済学は経済現象の動機を単に分析するのではなく、その倫理的重要性を天秤にかけねばならないそれは労働者の健康と生活と効率を守りつつ、国家への忠誠心を高めるものでなくてはならない

背景

フリードリッヒ・リスト

グスタフ・シュモラー

金井延(かないのぶる)

ヴェルナー・ゾンバルト



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アメリカ制度学派

ジョン・ケネス・ガルブレイズ

トーステン・ヴェブレン

青木昌彦(あおきまさひこ)

背景

語彙

言葉説明
誇示的消費見せびらかしの消費。他人に裕福だとみられたいがための消費行動(ヴェブレン)
有閑階級暇を見せびらかしたい消費行動(ヴェブレン)


章トップ

ローザンヌ学派

レオン・ワルラス

一般均衡理論
語彙
語彙説明
石油輸出機構(OPEC)産油国の国際機関
1バレルOPECが定める原油価格を決める際の単位
北米経済圏(NAFTA)


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新古典派経済学

カール・メンガー

ウィリアム・スタンリー・ジェヴォンズ

アルフレッド・マーシャル

クヌート・ヴィクセル

アーヴィング・フィッシャー

ポール・サミュエルソン

フリードリッヒ・ハイエク

解釈

ハイエクの思想は経済学の根拠のなさを露呈するには十分だったと考えられるが、一方でケインズはハイエクの気持ちを理解していたようにも思う。それはケインズが先に死んでいる点と、ケインズが経済学などという無意味な理論に民衆が皆賛同することになっていることを確かめるために活動させられていたためで、実際はハイエクと同意見だったように思う。
この点、ハイエクの方が経済の無意味さを理解して、自らもそれに呑まれている証言者だと言えそうである。ここで一番の議題に上がるのは、例えば氏族にとって経済がその愛をもって、または家をもって、民衆の暮らしをよいものに維持できるかという点であるが、これが可能であれば、この理論すらも愛の一部ととらえる必要がある。無論、ハイエクとケインズの論争は、実際は「王権と国家」とのような、すなわち部族王による支配か、国王の愛による営みかという問題を含んでいる点で優れている。さらにはイギリスの産業革命における本来の意味が十分問われ、理解される必要があるのは世界史的に必須であるが、この影響が実際の真実を隠蔽している。

語彙

語彙説明
価値理論何が個人にとっての価値かを論ずること。
限界効用ある人やある製品の社会的価値のこと。その価値が最小どれほどかを表す。
限界価値ある経済行動に対して収益がどれほどに高まるによって


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マクロ経済学の一分野。数多くのノーベル賞受賞者が出ている。

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