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日本近現代史

目次


政党の分類

日本最初の政党

1874年(明治七年)1月12日 板垣退助(いたがきたいすけ)・副島種臣(そえじまたねおみ)・後藤象二郎(ごとうしょうじろう)ら数名が結成した愛国公党

サルトーリの分類

  1. 一党制:旧ソ連やキューバ、ベトナムのように一党が独裁
  2. ヘゲモニー政党制:事実上一党制で、他党派存在できるが、平等な競争は許されない。中国や北朝鮮
  3. 一党優位政党制:複数政党が平等に競争するが、一党のみが継続して多数となり政権を担当
  4. 二党制:イギリス、アメリカのように政権交代する二大政党
  5. 穏健な多党制:イデオロギー距離の近い三~五の政党が単独又は連立し政権を担当
  6. 分極的多党制:イデオロギー距離の遠い六~八の政党制で、中道政党が単独または連立し政権を担当
  7. 原子化政党制:全国的な政党が存在しない時期に多数の政党が簇生する状態

自由党系と改進党系の流れ

自由党

憲政党(1898)→立憲政友会(1900)

立憲改進党

進歩党(1896)→憲政本党(1898)→立憲国民党(1910)→立憲同志会(1913)→憲政会(1916)→立憲民政党(1927)

5つの時代区分

  1. 第Ⅰ期:明治維新から1898(明治31)年の憲政党内閣誕生およびその分裂までの時期
  2. 第Ⅱ期:1900年の立憲政友会の出現から、1925(大正14)年の普通選挙成立までの時期
  3. 第Ⅲ期:普通選挙の実施から、戦争を挟んで五五年体制が完成する1955(昭和30)年までの時期
  4. 第Ⅳ期:1955年から1989(平成元)年12月のマルタ会談を経てソ連が崩壊し冷戦が終了するまでの時期
  5. 第Ⅴ期:1989年以降から現在までの時期
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出来事等

出来事
出来事時代内容
寛政の改革(松平定信)出島貿易を縮小し、鎖国を厳格化した。1791年異国船に対する全国的な対処ルールを明文化した。異国船が漂着ではなく意図的に来航した場合は柔らかに召捕り、抵抗したら打ち砕くよう命じる。
黒船来航1853年米国マシュー・ペリー率いる黒船艦隊が浦賀に現れた。筆頭老中阿部正弘らは海防力の不足を自覚した。翌年に和親条約を締結、来航した船・人への人道的な扱いを約束した。他の列強とも同様の条約を結んだ。
修好通商条約1858年幕府が、米国総領事タウンゼント・ハリスとの間に修好通商条約を結ぶ。国交を樹立し、開港(神奈川・兵庫・長崎・新潟・函館)と開市(江戸・大坂)で貿易を行うことを認めた。米国を含む欧米五か国と締結。1869年に至るまで他のヨーロッパ諸国との間でも成立した。(ポルトガル、プロセイン(のちに北ドイツ連邦)、スイス、ベルギー、イタリア、デンマーク、スウェーデン=ノルウェー、スペイン、オーストリア=ハンガリー君主国、さらにハワイ、ペルー)(清朝とは1871年に修好条規、朝鮮とは1876年に修好条規を結ぶ)。交渉方針として、行政権の回復と領事裁判権の撤廃を上げた。
薩英戦争1863年8月15日生麦事件(前年9月14日、神奈川の生麦村付近で騎乗したまま島津久光の行列と遭遇したイギリス人が殺傷された)の責任を追及するイギリスの杆体が薩摩と交戦し、鹿児島を砲撃した。
大政奉還1867年11月9日徳川慶喜が大政奉還を宣言し、新しい政体での主導権を確保しようとした。
王政復古1868(明治元)年1月3日薩摩は大政奉還を無視して王政復古を断行。
廃藩置県1871年8月29日新政府が廃藩置県を宣言する。諸大名はこれを受け入れた。薩摩・長州・土佐が新政府の直轄軍を提供していたこと、多くの大名が財政破綻に陥っていたこと、倒幕に出遅れた有力藩が新政府に協力・参画する機会をうかがっていたことが背景としてある。これらに加え、統一国家を作るということが、時代の要請として幅広く受け入れられていたことがある。
吉田・エヴァーツ協定1878年駐米公使吉田清成(よしだきよなり)とエヴァーツ国務長官の間で、関税自主権回復と貿易行政規則の制定権を日本に認めた。ヨーロッパ諸国は既得権を手放そうとはしなかった。
自由党1881年自由民権運動からの流れで結成。条約改正の具体論に入るよりも、条約改正を実現するには薩摩・長州出身者を中心とする藩閥政府では力不足とし、国民の後援を得るために国会を開設するべしと論じた。国内の政治体制への関心が強くなる。自由党も内治を優先することになる。
西南戦争1877年西郷が起こす。本人は自決。同じころ木戸は病没。翌年に大久保が暗殺される。大隈・伊藤・井上馨らが政府の中心になる。
条約改正会議が裁判管轄条約案を採択1887年4月22日日本は条約案において内地開放に加え、①未整備の法典を編纂し、領事裁判撤廃前に各国政府に見せること②外国人の訴訟のため、裁判所に外国人法律家を任用すること、を追加の譲歩として約束した。
大隈外相任命1888年2月大隈が政権に復帰し、後任の外相となる。会議方式を各国別交渉方式に転換。しかし、骨格は変わらなかった。
松方デフレ1880年代前半自由党は、公式には解党(1884年)するほどに逼迫した。
来島恒喜手榴弾1889年10月18日玄洋社系の活動家、来島恒喜(くるしまつねき)が大隈に手りゅう弾を投げる。大隈は重傷を負い、外相を辞任。
国会開設1890年国会開催。自由党と改進党は和解し、地租減税を目指した歳出削減闘争を衆議院で天界。
通商航海条約調印1894年7月16日
日清戦争1894年8月1日宣戦布告。日清戦争は日本の政治を変えた。国家の運命を自らの運命と一体視した。
三国干渉1895年4月ドイツ、フランス、ロシアの三国干渉を受け、遼東半島を清朝に還付する。伊藤内閣は再び窮地に。11月には自由党を与党として正式に迎えることで第九議会を乗り切った。
進歩党結成1896年3月改進党などの体外硬派が進歩党を結成。
第一次大隈重信内閣(隈板内閣)1898年一時的に自由党と進歩党が合同し、初の政党内閣を組織。
全国有志懇親会1887(明治20)年5月15日全国から203名の自由民権家を集めて大阪で開催された。主催者は星亨
府県会規則制定1878年府県会が設置される。府県会議員の多くは豪農や豪商であった。
市制町村制1889年江戸時代自治が認められた町村を改めて自治を認め、公民(地租を納めるかまたは直接国税2円以上を納める二五歳以上の男性戸主)から無給の名誉職村長や議員を占拠して町村の運営にあたらせることを規定した。また、条文では示さないものの財政規模を拡大することで町村運営を円滑に進めるため、町村合併を促した。
定義等
定義内容
尊王攘夷運動天皇の勅許をえずに調印した修好通商条約への批判から幕府を批判する。下級武士を中心に台頭する。浪士となるものが現れる。維新の先駆けとなり、過激な言動で内外の危機を招いた。
公武合体運動尊王攘夷と佐幕開国の対立を緩和するために展開。公武とは公家と武家のことで、朝廷と幕府を和解させる運動。政局と対外関係に安定をもたらすことはなかった。幕政と条約に不満を持っているのは朝廷で公武合体は朝廷をなだめようとする有力大名の手柄争いとなった。
条約改正内外人の支配統一のため条約改正が必要だった。新政府は条約継承を宣言した。それは尊王攘夷派の失望を招くことは分かり切っていた。そこで条約の弊害を検討して改正することを宣言した。それ以来条約改正は明治政府最大の政治的責務となり、外交課題となった。
自由民権運動日本の主要政党の母体となった運動。指導者は板垣退助(土佐)西郷とともに征韓論を唱える。
条約励行今ある外国人の不当な特権をまず回収し、条約通りに運用する精神があることを示す主張。
大同団結運動1886年頃に状況が変化し、政党再結成の動きを急加速した。この運動の特徴は1.誰が最初の国会議員になるのかという現実問題が強く意識されていたこと。2.政治的なイデオロギーではなく、実際問題で大同団結しようとしたこと。3.最初に地方的団結を形成し、それを積み上げる形で全国的な政党を結成しようとしたこと。数字の上では1898年に結実したことになる。
三大事件建白運動言論集会の自由、地租軽減、条約改正
積極主義都市の商工業者・実業家を新たな支持基盤に取り込み、日本の将来を海外貿易の発展に求め、今後は地方の生産を促進して富国増進につなげるため、地方鉄道・道路・港湾などの産業の基盤を整備する動き。民力休養論の「消極主義」に対峙させた呼び名。
重要事物
人物説明
孝明天皇
徳川慶喜
睦仁親王(明治天皇)
木戸孝允(きどたかよし)長州
大隈重信(おおくましげのぶ)大蔵省、肥前
伊藤博文(いとうひろぶみ)長州
井上馨(いのうえかおる)長州
平岡浩太郎(ひらおかこうたろう)福岡市、玄洋社初代社長、自由民権運動家。Wiki
陸羯南(くがかつなん)ナショナリズムの提唱者
星亨(ほしとおる)
原敬(はらたかし)
安川敬一郎筑豊の地方財閥
政党・団体・会社など
政党名概要
自由党
立憲改進党大隈が自由党に合流しなかった民権結社と結成。自由党と異なり、具体的な経済・外交政策への見識を誇示。地租の大規模な減税、財源として関税増収を専攻させた条約改正を提案。
憲政党
玄洋社Wiki
立憲政友会1900年に発足。伊藤の側近官僚の渡辺国武・西園寺公望・金子堅太郎のほか憲政党に加え、日吉倶楽部・帝国党の一部を含む衆議院の過半数の代議士が参加。
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五・一互事件の頃

1932年「五・一五事件」

人物
名前概要
近衛文麿

近衛文麿の時代

第一次近衛内閣

1930年ごろには昭和恐慌等、資本主義の行き詰まりが叫ばれ、隘路として対外的膨張が志向され、国家的危機意識が高まった。近衛文麿新党構想(民政党)宇垣一成新党構想(政友会)の新党計画が行われるが近衛自身が決断せず成功しなかった。1937年12月に常盤会で党の合同を主張し、政党政治を復活させようとしていた。

第二次近衛内閣(1940年7月)

近衛新体制運動は最後の切り札として期待を担って開始された。1940年6月に近衛は枢密院議長を辞任し新体制運動に乗り出すことを発表、二週間後に社会大衆党が解党、8月までに政友会、民政党も解党した。既成政党派も前衛党派も早く解党することで、新党の主導権を握ろうと考えた。近衛自身は当初前衛党構想に近かったが新体制は近衛の総裁となるため幕府と同じだという右翼方面から強い反発が生まれ、近衛は前衛党構想を放棄していく。大政翼賛会の発表式直前に後退して、大政翼賛会は行政補助機関化する。

1925年
出来事等
出来事年代説明
普通選挙の実現
四つの無産政党の誕生1926(昭和元)年日本共産党との距離をめぐって四つの無産政党(労働農民党、日本労農党、社会民衆党、日本農民党)が誕生。その後路線をめぐる対立から合同を繰り返した。
昭和恐慌1930年
社会大衆党の誕生1932年無産政党の統一戦線を必要として誕生。無産政党は「資本主義」と「既成政党」を打倒として戦争をいい機会とみなし、ドイツ・ナチスを模倣した。
大政翼賛会1940年
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