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世界の歴史

目次

  1. 大まかな年表
  2. 東南アジアの戦時中の動き
  3. ベトナム戦争

大まかな年表

年代事柄特記事項
1万年前ホアピン文化(石器文化)が広がる
前4世紀頃ドンソン文化(金属器文化)が広がる
前111漢の武帝の南海遠征
192林邑の建国
7世紀初頭真臘(しんろう)の建国クメール人の王国
679唐がハノイに安南都護府を設置
687義浄(インドのナーランダ僧院で学んだ学生の一人)がシュリーヴィジャヤに滞在
802カンボジア:アンコール朝の成立
820頃ジャワ:ボロブドゥル寺院の建設
1009ベトナム:李朝大越(リーチョウダイベト)の成立
1019ジャワ:クディリ・アイルランガ王が即位
1044ビルマ:パガン・アノーヤター王が即位
1113カンボジア:アンコール・スールヤヴァルマン2世が即位。アンコール・ワット建設の開始
1222ジャワ:シンガサリ朝の成立
1225ベトナム:陳朝大越(チャンチョウダイベト)の成立
13世紀末東南アジア各地にモンゴル軍が襲来
1292シャム:スコータイ・ラーマカムヘン王の碑文
1293ジャワ:マジャパヒト朝の成立
1297スマトラ:パサイでアラビア文字の王の墓碑
1351シャム:アユタヤ朝の成立
1400ベトナム:胡朝(ホーチョウ)の成立
1400頃ムラカの成立
1405鄭和(ていわ)の南海遠征(~1433)
1428ベトナム:黎朝大越(レーチョウダイベト)の成立
1471大越の遠征によりチャンパー・ヴィジャヤが陥落
1511ポルトガルのムラカ占領
1521マゼラン艦隊のフィリピン来訪、マゼラン殺害
1527ベトナム:莫朝(マクチョウ)の成立
1529サラゴサ条約(ポルトガル・スペイン)
1539ビルマ:タウングー朝がペグーに遷都
1567明の海禁政策の緩和
1569タウングー朝ビルマによるアユタヤの占領
1571スペインのマニラ建設
1590シャム:アユタヤのナレースエン王が即位(後期アユタヤ)
1597ビルマ:ニャウンヤン朝の成立
1601ベトナム:広南阮氏(クアンナムグエン)政権の成立
1602オランダ東インド会社の成立
1618カンボジア:チャイチェッタ2世による王都ウドンの建設
1619オランダのバタヴィア建設
1629アチェ:イスカンダル・ムダ王によるムラカ包囲
1641ジャワ:マタラム・アグン王がスルタンを称する
1644清の成立(明清交代)
1656シャム:アユタヤ・ナライ王即位
1661清が遷界令を発する遷界令(せんかいれい)とは、1661年に清王朝が実施した住民の強制移住政策およびその命令をいう。
1666マカッサル戦争(~1669)、オランダのマカッサル攻略
1675ジャワ:マタラムにおけるトルノジョヨの反乱
1684清が遷界令を解除
1694ジャワ:オランダの義務供出制度の開始
1708鄚玖(マクキュウ)がハーティエンの領主に
1752ビルマ:アラウンパヤーがコンバウン朝を建国
1767コンバウン朝ビルマがアユタヤを占領(アユタヤの滅亡)
シャム:タークシンがトンブリー朝を建国
1775呉譲(ごじょう)がマレー半島・ソンクラーの領主に
1777ボルネオ:ポンティアナクで羅芳伯(らほうはく)が蘭方公司を設立
1778ベトナム・タイソン朝の成立
1782シャム:チャクリ(ラーマ1世)がラタナコーシン朝を建国
1786イギリスのペナン獲得
1799オランダ東インド会社の解散
1802ベトナム:阮福暎(グエンフックアイン)(嘉隆帝:ザーロンテイ)が阮朝を建国
1804ラオス:アヌ王の即位
1811イギリスのジャワ占領(~1816)
1819イギリスのシンガポール獲得
1847カンボジア:アンドゥオン王の即位
1784コンバウン朝ビルマ、ラカインを征服
1786イギリス、ペナンを獲得
1816オランダ、イギリスから変換されたジャワを直轄植民地とする
1819イギリス、シンガポールを獲得
1821スマトラ島ミナンカバウ地方でパドリ戦争(~1837)
1824第一次英緬戦争(~1826。イギリス、ラカイン地方とテナセリム地方を獲得)。英蘭条約締結。
1825ジャワ戦争(~1830)
1826シャムとイギリス、バーネイ条約締結。イギリス、海峡植民地(ペナン、シンガポール、マラッカ)を形成
1841ジェームズ・ブルック、サラワク王となる
1846イギリス、ラブアン島を獲得
1851ラタナコーシン朝シャムでモンクット王(ラーマ4世)即位
1852第二次英緬戦争(~1853。イギリス、ビルマ南部のデルタ地帯を獲得)
1853コンバウン朝ビルマでミンドン王即位。近代化施策
1855シャム、イギリス次いでアメリカと修好通商条約締結
1856シャム、フランスと修好通商条約締結
1861フランス、メコンデルタ東部3省獲得。直轄植民地コーチシナ形成
1863フランス、カンボジアを保護国化
1867イギリスの海峡植民地、直轄植民地となる。フランス、メコン・デルタ西部3省併合
1868ラタナコーシン朝シャムでチュラロンコーン王(ラーマ5世)即位
1870年代スマトラ島北端でアチェ戦争(~1910年代初頭)
1881北ボルネオ会社、特許会社として設立される
1883フランス、トンキンを保護領化
1884フランス、阮朝(アンナン)を保護国化
1885第三次英緬戦争。英領ビルマの領域がほぼ確定。フランスと清朝、天津条約締結。清朝は阮朝に対する宗主権を放棄
1887仏領インドシナ、発足
1888サラワク王国、ブルネイ王国、北ボルネオ会社領、イギリスの保護下に入る
1891イギリスとオランダ、ボルネオ島における最初の境界画定
1893フランスとシャムとの条約により、シャムはメコン川左岸地域を法規。ルアンプラバン、ヴィエンチャン、チャンパサックの3王国はフランス領ラオスへ編成
1896イギリス、連合マレー諸州(ペラ、スランゴール、パハン、ヌグリ・スンビラン)を形成
1898米西戦争の結果、フィリピンがアメリカの植民地となる
1899仏領ラオス、仏領インドシナへ編入
1907フランス、シャムよりカンボジア西部バッタンバン地方を奪取。シャムとフランスの国境線が定まる
1909イギリスとシャムの条約によりマレー半島での境界画定。プルリス、クダ、クランタン、トレンガヌがイギリスの保護国になる
1826イギリス、シャムとバーネイ条約締結
1830蘭領東インドでファン・デン・ボスが総督就任。強制栽培制度開始
1834マニラ開港
1840イギリスと清朝との間で、アヘン戦争(~1842)
1842ペニンシュラー・アンド・オリエンタル汽船会社、スエズ―カルカッタ間の郵便定期航路開業
1844モールス信号実用化
1869スエズ運河開通
1914パナマ運河開通
1929世界恐慌発生
1874タイでラーマ5世のもとチャクリー改革が行われる
1882スペイン留学中のフィリピン人知識人がプロバガンダ運動を開始
1885ベトナムで勤王運動が起こる
1892フィリピンで秘密結社カティプナンが結成される
1896フィリピン革命が勃発
1905ベトナムで東遊運動が始まる
1908ジャワで民族団体ブディ・ウトモが設立される
1911ジャワでイスラム商業同盟(後のイスラム同盟)が成立
1920東インド共産主義者同盟(後のインドネシア共産党)が発足
全ビルマ団体総評議会が成立
1925マラヤで南洋共産党(後のマラヤ共産党)が結成される
1928インドネシア国民党が成立
1930われらのビルマ人協会(タキン党)が結成される
インドシナ共産党が結成される
下ビルマでサヤー・サン反乱が起こる(~1932)
1932タイ人民党がクーデタ(タイ立憲革命)を決行
1939シャムが国名をタイに変更
1939第二次世界大戦勃発
1940日本軍、北部仏印進駐
1941日本軍、南部仏印進駐
日本軍マラヤ上陸
アジア・太平洋戦争開戦
1942日本軍、シンガポール占領
1943日本軍、ガダルカナル島撤退
日本、ビルマに「独立」を付与
日本、フィリピンに「独立」を付与
秦緬(たいめん)鉄道開通
東京で大東亜会議開催
1944日本軍、ビルマでのインパール作戦中止命令
1945ベトナム北部での飢饉深刻化
日本軍、仏印処理
ビルマ国軍、日本に反乱
日本、連合国に無条件降伏
インドネシア共和国独立宣言
ベトナム民主共和国独立宣言
1945スカルノがインドネシア共和国の独立を宣言
1946フィリピン共和国が独立
1947タイでピブーン政権が誕生
1948ビルマ連邦が独立
マラヤ連邦が発足、マラヤゼンドに非常事態宣言
1950インドネシア共和国が成立
1953フィリピンのマグサイサイ大統領が農地改革に着手
1955アジア・アフリカ会議(バンドン会議)
1957マラヤ連邦が独立
1959インドネシアでスカルノが「指導された民主主義」を提唱
1962ビルマでネイウィンらがクーデタを決行、軍政が始まる
1963マレーシアが成立
1965インドネシアで9月30日事件が起こる
シンガポールがマレーシアから分離独立
1969マレーシアで5月13日事件が起こる
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東南アジアの戦時中の動き

日本の動き

1940年4月~6月のヨーロッパ戦線でのドイツの「電撃作戦」で、東南アジアに植民地を持つオランダ、フランスがドイツに降伏、イギリスも危機に瀕する状況で日本は日中戦争に困憊するなか東南アジアを勢力圏に組み込めば有利になると考えて武力南進。第一歩となったのは、フランス領インドシナだった。

41年12月8日「アジア・太平洋戦争」勃発後の「対東南アジア軍事作戦」

国別にみる動き

フィリピン

主だった組織

コモンウェルス政府(1935年)独立準備政府(アメリカに独立を約束されていた)

指導者、代表

初代大統領ケソン、ホセ・ラウレル大統領

日本の動き

1943年10月フィリピン共和国に「独立」を付与。エリート政治家ホセ・ラウレルを大統領に

マラヤ(シンガポール含む)

主だった組織

マレー青年連盟(38年)

ビルマ

主だった組織

タキン党、南機関、ビルマ独立義勇軍(BIA)、ビルマ防衛軍(BDA)、ビルマ国軍(BNA)、愛国ビルマ軍(PBF)

指導者、代表

アウンサン(タキン党)、パ・モー(自治機関、中央行政府の長)

日本の動き

陸軍参謀本部の鈴木敬司大佐(中国の蔣介石[しょうかいせき]政権への補給ルートをかく乱するために、ビルマに対する工作を開始, タキン党にビルマ独立のための武力を約束した。)

出来事
年月日名称説明
41/2南機関設置対ビルマ工作機関として南機関設置ビルマ人青年を国外に脱出させ海南島で軍事訓練を施す。
42/1/22第15軍にビルマ要域の占領を命令。
42/3/8ラングーン占領
42/6/4ビルマ占領も、独立の用意がなく、第15軍による軍政を施行。BIAはBDAとなり、第15軍に隷属する部隊となった。
42/8/1中央行政府パ・モーが筬になる。ビルマ人の自治機関が発足。
43/6/10南機関解散アウンサンもBDA司令官として日本への協力を続けたが、日本は独立支援を守れず対日不信を抱いた結果、解散。
43/8「独立」付与実体の伴わないもので、労働を科し、人々の不満が増大。
44/8反ファシスト人民自由連盟アウンサンを議長とした、反日組織結成。日本軍のインパール作戦は失敗。
45/3アウンサンの命令でビルマ国軍も日本に反旗を翻す。
45/6/15ラングーン入城愛国ビルマ軍と改称したビルマ国軍がイギリス軍とともにラングーンに入城。

インドネシア

主だった組織

郷土防衛義勇軍(ペタ)

指導者、代表

スカルノ

ベトナム

主だった組織
指導者、代表

グエン・アイ・クォック(ホー・チ・ミン)

出来事

1945年9月2日:ベトナム民主共和国の独立宣言(グエン・アイ・クォック[ホー・チ・ミン])

タイ

主だった組織

指導者、代表

ピブーン、摂政プリーディー

出来事

1940年:ピブーン首相、タイ仏印戦争を起こす。

1941年12月21日:日タイ同盟条約締結、イギリスからの失地回復を実現。

1943年11月:東京で「大東亜会議」開催、ピブーン自身は参加しなかった。

1945年8月16日:プリ―ディーの平和宣言「対米英宣戦布告はタイ国民の意志に反して、日本に強制されておこなった」を発した。

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ベトナム戦争

年表

年代出来事説明
1955年9月ベトナム民主共和国独立宣言

インドシナ戦争

ベトナム独立時には宗主国フランスはこれを認める用意がなく、植民地支配の再建を目指した。フランスの復帰が始まり、ベトナム民主共和国、カンボジア、ラオスの独立勢力との間に戦争が発生した。→インドネシア独立戦争と同一の性格を持っていた。

中華人民共和国の成立(49年)
    ↓
インドシナ戦争は東西冷戦に組み込まれる
    ↓
1.米国は反共産主義としてフランスを支援
2.ベトナム民主共和国は中国・ソ連からの支援を得るようになった
    ↓
  戦争が長期化
    ↓
54年東西関係に緊張緩和の兆 → 「ジュネーヴ協定」により停戦
【シュネーヴ会議】
ベトナム・カンボジア・ラオスの独立
戦争の長期化、米国の軍事介入を望まなかった中国、ソ連からの圧力
    ↓
ベトナムを北緯17度線を軍事境界線 → 一時的に南北に分断(2年後には南北統一の選挙を行う約束の元)
1.北にベトナム共和国の軍隊
2.南にフランスとその支援を受けたベトナム国の軍隊

54年「ディエンビエンフーの戦い」(停戦の主導権をどちらが握るかをめぐって戦われた戦闘)
    ↓
フランス軍がベトナム民主共和国軍に降伏 → フランス植民地支配の終焉

ベトナム戦争の展開

フランスを支援したアメリカ(インドシナ戦争の末期から)
    ↓
冷戦下の東西両陣営の縄張りと同一視
共産主義者の支配する北 VS 米国が自陣営に属すると捉えた南
※南を失うことを阻止しようとした

【ベトナム戦争】
北:ベトナム民主共和国
    VS
南:南ベトナム解放民族戦線

ゴ・ディン・ジエム政権:米国の支援のもとに南ベトナムを支配した。親仏派を排除し、一時は安定した支配を達成したかに見えた。ジュネーヴ協定で約束された南北統一選挙を期待したベトナム労働党(南にも党組織を有した北の政権政党)が南での武装闘争の発動を控えていたことも有利な材料となった。

ジエム政権による弾圧 → 南の党組織の崩壊の危機(労働党)
→ 59年南での武装闘争の再開 → ジエム政権への反発を噴出させる役割となる
→農村地帯 政権に反発する蜂起(ほうき)
60年12月 労働党の指導の下に南ベトナム解放民族戦線結成(米軍の本格的介入は避けたいと考えた。)

【労働党』
北の正規軍(人民軍)が軍事境界線を突破して南に入るのではなく、できる限り南の内部でジエム政権を追い詰めようとした。(朝鮮戦争では北の軍隊が北緯38度の南北軍事境界線を突破したことが米軍の介入を招いたと考えたため)(南の組織であることを強調した解放戦線)
    ↓
ジエム政権の弱さが明らかになる → 米国ケネディ政権大量の軍事顧問団を派遣
ジエム政権は独裁的な傾向を強める
    ↓
63年 都市の仏教徒の大規模な反政府運動が起きる
    ↓
南の軍部は危機感を抱く → 63年11月 クーデタをおこしてジエム政権を打倒(軍事政権は安定せず、南ベトナムは危機的な状況に)
    ↓
労働党内部 レ・ズアン労働党第一書記を中心に強硬派が台頭(北の軍事力を南に投入し南の政権を追い詰めようとする)
    ↓
63年12月の中央委員会 戦略を変更 →北の人民軍戦闘部隊を南に投入することを決定


【米国】
ジョンソン政権 南ベトナムの反共体制を維持するには米国が前面に立つほかにない。南の反乱を支持している北を叩くことが必要と判断
64年 トンキン湾事件
65年2月 北ベトナムに対する恒常的な爆撃(北爆)を開始
65年3月 南ベトナムへの米地上軍戦闘部隊の投入
65年~73年 ベトナム戦争は冷戦時最大の局地戦争となる。
※120万人の戦死者、民間人を含む南北ベトナムの犠牲者は300万人
米国は朝鮮戦争のときに米地上軍が南北の軍事境界線を越えて北進したために中国軍の介入を招き多くの犠牲者を出したという「反省」から、北ベトナムに地上軍を進出させる選択肢を取らず、地上軍による戦闘は南に限定。
1968年旧正月 北の人民軍と解放戦線が南ベトナムの都市に対する一斉攻撃(テト攻勢)は戦争がうまく進んでいかない思いを米国国民に印象付けた(米軍の戦死者は58,000人あまりだった、国力の一部を限定的に投入する局地戦争だったため米国社会にとっては「耐えられない犠牲」だった。テト攻勢で米国内外の反戦運動も高まる。
    ↓
1969年 ニクソン政権登場 米軍の関与を減少させる。そうせざるを得なかった。
南の反共親米政権を維持するためカンボジアに戦争を拡大したり、米中接近により北ベトナムを牽制したりした
    ↓
1973年 パリ協定の締結 米軍撤退
76年 南北を統一したベトナム社会主義共和国を樹立

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