ヨーロッパにおける都市の起源
ヨーロッパ世界は東方の古代文明に比して、遥かに後発の文明として出発した。
前800年頃鉄器時代に入った。
ケルト人
- インド=ヨーロッパ(印欧)語族に属する
- 祭司(神官)(ドゥルイド)、戦士階級、農民からなる三機能社会を営んでいた。
- 優れた冶金術と農耕技術を持ち、森の民として活動した。
- ローマ人はケルト人の集落をオッピドゥムと呼んだ(後の中世ヨーロッパの城郭都市の先駆的形態と言える都市的機能を具えていた。
| 年代 | 出来事 |
|---|---|
| 前500年頃~前1世紀頃 | インド・ヨーロッパ系語族のケルト人がヨーロッパに進出。(500年間) |
| 前4世紀には | イタリア半島に進出 |
| 前2世紀中ごろまで | イタリア半島のローマ人(ラテン人)と覇権を争う |
| 前50年 | ガリア地方(現在のフランス)はケルト人の戦士貴族集団により支配されていたが、カエサルのガリア遠征により、ケルト=ガリアの世界はローマの支配下に組み込まれていった。 |
ゲルマン人
- インド=ヨーロッパ(印欧)語族に属する
- ケルト人がヨーロッパ中部から南部で勢力を伸ばしている間、北部のドイツからスカンディナヴィア半島に定着
- 都市的集落も文字も持たず、祭祀を司る特別な神官もおらず、農耕と牧畜を生業とする質朴な人(ローマ人歴史家コルネリウス・タキトゥスの著作『ゲルマニア』(98年ごろ))
- 共和政から帝政へと移行し、地中海一帯を包括する広大なローマ帝国を形成していった間に、ゲルマン人はローマ帝国領へと移動し始めていた。
- ケルト人と同様(ヨーロッパ)という固有の世界の担い手となっていった。
| 年代 | 出来事 |
|---|---|
| 4世紀(375年) | 東方からのフン族の進攻に耐えかねた東ゴート族の大移動をきっかけにゲルマン諸部族のローマ帝国内への移動、定着が継続する。 |
| 476年 | 東ゴート系のゲルマン人傭兵隊長オドアケル、最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスをローマから追放、以後西方では皇帝は不在となった |
ローマ人の動き
- ケルト人との覇権争いの後、イタリア半島から次第に支配の版図を広げ南フランスやイベリア半島等地中海世界に覇権を確立
- ローマ帝国の北の国境線は、ライン川とドナウ川であったが、3世紀末からフランク族やアレマン族がライン川を越えてガリア北部へと侵攻したため、ローマの北辺領域を防衛する必要が生じ、この時にトーリアなど多くのローマの年集落(キヴィタス)に囲壁が作られた。
- 西ローマ帝国の滅亡後、ローマ世界の中心は、東のビザンツ帝国へ移行。
- 地中海文明としてのローマは、その都市的伝統とともに数々の遺産をヨーロッパ世界に引き継ぐ
- 19世紀のドイツの法学者イェーリング「ローマは三度世界を征服(統一)した。一度は軍隊によって、一度は教会(キリスト教)によって、一度は法(ローマ法)によって」
ラテン語の果たした重要な役割
- ゲルマン人は、文字を持たなかったため、部族ごとの慣習法は口伝だった。
- 6世紀以降、ラテン語により文字化されたゲルマン部族法典(サリカ法典をはじめとして)、ローマ法の伝統が存在しなかった北部ヨーロッパにおいてゲルマン人の法慣習の存続に重要な役割を見出した。
- ラテン語は、書き言葉として、中世から近世、近代までヨーロッパにおいて学問的言語として存続した。(ギリシャ語と並んで何よりもヨーロッパ世界においてラテン語が担った知の言語としての重要性を示すものだった)
- 中世初期から修道院では、古代ローマの古典が、ラテン語テクストの筆写を通じて中世以降の時代へと継承されていった。
- 14世紀、イタリアの詩人ペトラルカ、ヨーロッパ各地の修道院を訪れてキケロをはじめとする数多くの埋もれていた古典写本を発見し、ルネサンスの文化運動の端緒を開いた
- カロリング時代、教会の言語として古代ローマのラテン語が再生され、教会の公的な文書の言葉としてラテン語が浸透していった。修道院が所有する所領の管理記録(所領明細帳)や司教の命令(カピチュラリア)、聖人伝などもラテン語で記された。
- 9世紀頃からヨーロッパ各地で民衆の放す俗語が書き言葉として現れてくるが、ラテン文字の表記なしにこうした俗語による表現は成立しなかった。
ローマ法という法典の受容
- 6世紀に東ローマ帝国のユスティニアヌス帝のもとで(ローマ法大全)が編集された。(しかし西ローマ帝国の領域ではその後長らく用いられることはなかった。
- 12世紀にイタリアのボローニャで再びローマ法が研究され、復活することになる。
- 13世紀にイタリア諸都市で発布された都市条例、その後のヨーロッパにおける法制度の発展にローマ法は大きな影響を与えた
ローマ人の残した都市の建造物
- ローマ文明は本質的に都市の文明
- ローマ人は、制服した多くの土地に都市を建設した際に水道橋や道路(ローマ街道)、コロセウム(円形競技場)など石を素材に長期的持続に耐える建築物を都市内外に作った。(南フランスのニーム、オランジュ、ドイツのモーゼル地方のトリーアなど)
- 古代ローマの年的遺産(遺跡)は、とりわけイタリアにおいて中世へと継受され、12世紀以降、ローマの栄光の記憶を蘇らせた。
- ローマ建築家ウィトルウィウス『建築十書』(後55年頃)はルネサンス期のイタリアにおいて再び見いだされ、ルネサンスの知識人(アルベルティ)たちの理想都市論のモデルとなった。
- ローマの遺産と共にゲルマン人の文化や習俗(特に衣食)も中性ヨーロッパ社会へと受け継がれていった。とりわけゲルマン戦士たちの食事は狩猟で得られた鹿や兎などの肉類、チーズ等の畜産品であり、中世ヨーロッパの貴族社会の狩猟と肉食の嗜好へとつながった
- 地中海世界ではワイン消費に対して、北ヨーロッパではビール(麦芽醸造酒)
キリスト教の浸透
| 年代 | 出来事 |
|---|---|
| 4世紀(313年) | コンスタンティヌス帝が「ミラノ勅令」を発布。キリスト教が公認される。(ローマ帝国は元来多神教を奉じる国家。) |
| 392年 | テオドシウス帝によってキリスト教国教化(キリスト教会は公認以前からローマ帝国の行政組織に沿って教会の組織化を進めて行った。地中海沿岸地方を中心とするローマ帝国領内ではキヴィタス「都市区域」ごとに信徒を統治する司教がおかれた。各地の教会組織をつなぐ形で帝国全体に広がる組織が4世紀の間に形成されていった。) |
| 初期のキリスト教の教義は統一されておらず、協議をめぐる争いが続いた | |
| 4世紀 | イエスが神か人間か、三位一体説の中の「聖霊」の役割等、アリウス派とアタナシウス派の論争が行われた。 |
| 325年 | 第一ニカイア公会議、三位一体説を奉じるアタナシウス派の主張が正統とされる。 |
| 381年 | コンスタンティノープル公会議、アリウス派とアタナシウス派、両方の主張を取り込んだ形で三位一体説を認めつつ、イエスは人性と神性をともに有するとされた。 |
| イエスに人性を認めるアリウス派は、その後ゲルマン人諸部族によって広く受け入れられていくことになった。 | |
| 4世紀まで | ローマ司教は、ローマで殉教した使徒ペテロの後継者、すなわちローマ教会の長として全キリスト教会への首位権を主張し、その主張は西ローマ帝国の領域に¥老いて一般的に認められるようになっていった。 |
| 西ローマ帝国内部の行政組織、ゲルマン人の大移動で解体していく中、ローマ教会の組織はその変動を乗り越えて存続する。 | |
| 5世紀 | ローマ司教、教皇という称号のもと、西方キリスト教会の長としてふるまうようになる。(他方、コンスタンティノープルの主教も、ローマ教皇(司教)と並ぶキリスト教会の長(総主教)としての権威を帝国東部で発揮)(西方、ラテン語 東方、ギリシャ語) |
| 5世紀末 | メロヴィング王朝の始祖クローヴィス(在位482年頃~511年)が王妃の影響を受けてカトリックへ改宗したエピソード。 |
| 6世紀頃 | ローマ・カトリック教会はゲルマン諸部族との結びつきを強めて行った。ローマ教会から派遣された宣教者たち、フランク族をはじめとするゲルマン人の支配層を、当初彼らが受容したアリウス派からアタナシウス派のキリスト教へ改宗させていった。 |
| 8世紀以降 | キリスト教世界における主導権をめぐる争いが生じた。聖像破壊運動や教義をめぐる論争 |
| 9世紀以降 | 東西教会の分離 |
| 1054年 | 西方のローマ・カトリック教会と東方の正教会が最終的に分離した教会と定められる。東西の並立 |
| 6世紀以降 | 6世紀以前に大陸よりも早くアタナシウス派のキリスト教を受容したアイルランドの聖職者たち、ブリテン島や大陸へ布教を行う。(アイルランドでは聖パトリックが432年にキリスト教布教) |
| 8世紀以降 | 東方正教会、バルカン半島から北東ヨーロッパのスラヴ人に対する布教活動。正教会による東方キリスト教世界が形成される。 |
| 7世紀以来 | 「贖罪規定書」が修道士によって作成される。 |
時間と空間のキリスト教化
キリスト教は、ゲルマン人、スラヴ人に速やかに広がったわけではなかった。
中世初期のキリスト教会によって時間と空間のキリスト教化が試みられた。
カトリック教会は多神教であったローマ人やゲルマン人の祝祭日をキリスト教の祝日や諸聖人の殉教の記念日へと読み替えて行った。→ゲルマン人の習俗におけるキリスト教化を試みた。
キリスト教空間化は殉教者の聖遺物が保持された場が聖別された聖なる空間とされ、新たな教会堂や修道院が創建されることで進められた。
- 三月の下旬:ローマ人においては春分と春小麦の収穫祭の時期。教会はこの時期をキリストの復活の祝祭(復活祭)と読み替えた。
- 六月の夏至時期:ゲルマン人にとって一年で最も重要な夏の到来(夏至)を祝う火祭りの祭礼の時期。教会は夏至(6月24日)を洗礼者ヨハネの祝日とした。l(ゲルマン人の自然崇拝をキリスト教の聖人崇拝に振り替えようと試みた)
- 9月29日:ゲルマン人にとっては収穫祭であった。聖ミカエルの祝日とされた。(収穫の祭りと聖人の祝祭の融合が試みられた。
- 12月25日:ローマ人の宗教(ミトラ教)の暦で冬至。イエスの誕生記念日(クリスマス)とした。
司教と修道院の役割
5世紀から10世紀(初期中世の時代)ライン川とドナウ川以南のヨーロッパではローマ人の建設都市(ゲルマン人の大移動後も継承)
4世紀以降の西ローマ帝国の危機→ローマ時代のキヴィタスの政治的行政的機能の収縮→カトリック教会によって継承
司教座:キヴィタスに設置された、司教が常駐して地域のキリスト教化の拠点(西ヨーロッパ諸地域の教会組織の発展に主導的役割を果たす。)(五世紀以降、宗教的、行政的中心となっていく)
司教は典礼と俗人信徒の司牧を司っただけではなく、住民間の紛争の調停や貧者救済、橋や道路の維持に努めて、その社会的権威を高めた。カロリング朝(751~987年)以降、政治的、軍事的な役割も担う。司教はフランク王から裁判権や免税特権を与えられ、領主として司教座を中心として一定の領域を支配。
カロリング・ルネサンス:カール大帝(742-814)統治期の宮廷で進められた、文化的活動(聖職者のラテン語教育など)の担い手として重要な役割を果たした。
結果、司教座は中世都市の一つの核を構成することになった。
7世紀頃 北東フランス地域の司教座都市の人口規模(ランス:5,800人、アラス:4,000人、ソワソン:2,080人、トゥールネ:1,900人、ボーヴェー:1,450人など)
| 年代 | 出来事 |
|---|---|
| 3世紀ごろ | 東方世界でキリストの使徒に倣って俗世の生活を捨て、禁欲的な修行の生活を贈る修道制が行われるようになった。 |
| 4世紀 | 東方教会で聖バシレイオスによって小アジア半島のカッパドキアにおいて創始された修道制が基本に |
| 5世紀以降 | 西方カトリック教会で南フランスにおけるレランス修道制、アイルランドの修道制 |
| 6世紀 | ヌルシアのベネディクトゥス(480頃-546頃)がモンテ・カッシノに修道院を創設。ベネディクト修道会の成立。 |
| 539年 | ベネディクトゥス会則を定める。(西ヨーロッパの多くの修道会に採用される。会則では、一日を定時課と呼ばれる3時間ごとに区切られた祈りの時間で管理し、共同祈祷、瞑想、読書、1日6時間の手の労働が重視された。北西ヨーロッパにも多くの修道院を創設し、フランク王権とも結びついて、西方カトリック・キリスト教圏において支配的な地位を占めるようになった。) |
| 7世紀以降 | ロワール・ライン川間の北西ヨーロッパを中心に古典荘園と呼ばれる大規模な土地経営を行う。 |
フランク王国
| メロヴィング朝 | 481-750年 |
|---|---|
| カロリング朝 | 751-987年 |
カール大帝(シャルルマーニュ)の統治期(768-814年):貨幣制度を金本位制から銀本位制へ改める。
非農業的定住地(商業地)(ヴィクス/ポルトゥス)
市場集落(カストルム/ブルグス)
- 世俗領主:伯の砦
- 聖俗領主:古典荘園制
9世紀以降 北方ノルマン人の侵攻→西ヨーロッパ都市的定住地→周囲を囲壁により防備(聖ジェリー修道院(カンブレ)、聖レミ修道院(ランス)、聖ドニ修道院(パリ近郊)等)
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